2017年3月23日木曜日

新釈:中西悟堂伝

愛玩目的の野鳥の捕獲・飼養は近年まで一世帯にメジロ一羽に限り認められていましたが、平成239月の指針改正により、24年度から原則として許可されないこととなりました。これも各種保護団体の地道な活動の成果であり、とても喜ばしいのですが、実は日本野鳥の会初代会長の中西悟堂は大の飼い鳥マニアだった!としたら驚かれるでしょうか。

いやいや、まさか。だって中西悟堂といえば、「野の鳥は野に」をスローガンに、カスミ網禁止運動を繰り広げた人物のはずです。

「探鳥会」「野鳥」という言葉を発明し、それまでは「捕る・食べる・飼う」ものだった鳥を保護するために昭和9年「日本野鳥の会」を立ち上げた、孤高で剛腕な活動家…。しかし、よく知られたその伝記、実は、ちょっと脚色されすぎているのです。

例えばこの本。

 



昭和34年に出版された「目白と鶯」という本です。野鳥の会にとっては憎むべき飼い鳥指南書ですね。

ところが、中表紙に流麗な書体で「宇ぐい須 免じろ」と揮毫しているのがなんと中西悟堂なのです。


 


昭和34年と言えばカスミ網撲滅運動が成果を挙げ、飼育許可種がメジロなど7種のみとなっていましたが、野鳥の会はまだまだ反対運動の真っ最中です。そんな中でも、悟堂は合法的な飼養家集団とは交流を続けていたことがうかがえます。



繍眼児と書いてメジロと読みます



そもそも中西悟堂という人は「家の中で野鳥を放し飼いにしている僧形の哲人」ということで話題となった人物で、野鳥の会以前は周囲との交遊も少ない清貧の文士でした。家にはヨシゴイ、オナガ、サギ、カラス、スズメなどを飼っていたようです。

「日本にも鳥類を保護する民間団体が必要だ」と感じて一番奔走していたのは、実は中西ではなく農商務省の鳥類調査室長、内田清之助でした。内田は野鳥の姿焼きや狭い籠での飼育を「非西洋的」で「文明的でない」と感じていました。内田は益鳥による害虫駆除、生態観察、給餌台、巣箱など舶来の「新しい」鳥との付き合い方を普及したかったのですが、いかんせん彼は学者。学術論文なんて市民は読んでくれません。

ある日、悩める内田に知人の学者が「面白い男がいる」と中西を紹介しました。会いに行ってみるとぶっきらぼうだが確かに面白い。内田は哲学者然とした風貌で鳥の魅力を語る中西に大きなカリスマ性を感じ、省庁の人脈をフルに使って鳥学界の重鎮と次々に会わせます。鷹司公爵や黒田侯爵ほか、きら星のような戦前の文化人たちに囲まれ懇願されるうちに、中西はとうとう内田が語る「日本野鳥の會」とやらの会長職を引き受けることになってしまいます。我知らず神輿の上に乗せられ、梯子を外された形です。

しかし中西も全く後ろ向きだったわけではなく、「野鳥」誌の目玉ともいえる連載を通じて自身の意見、飼い鳥と生きる生活の魅力を発信していきます。創刊号(昭和95月)から巻頭を飾っていた中西自身の随筆「放飼瑣談」は途中名を替えながら29号(昭和10年)まで続きます。
 が、突然打ち切りになり後に飼鳥の記事は激減します。続く32号(昭和11年)では会の憲法ともいえる『日本野鳥の會趣旨』も大きく変わります。どうやらこのあたりで会の運営に一つの転機があったようです。

創刊号からの趣旨の冒頭は『昔から、鳥は花と共に吾が國民の感情生活に豊かな潤ひを與へ、その藝術生活に輝かしい生彩を與へてきたものであります…幸ひに飼鳥の趣味は一般化されて居り、又科學思想は、古来吾が民族が「花鳥」の名を以て愛して來たそれらのものを、動物及び植物の名に於て研究してゐます。…』でしたが、改定後は飼鳥も含めたこの全文がバッサリと削除されました。

文末も従来『本會は、科學的、民俗學的、飼育的、美術的、文學的な諸方面から鳥を觀察し、研究し、…』だった文が『本會は、科學的、美術的、文學的、民俗學的、飼育的な諸角度から鳥を觀察研究し、…』と順序が入れ替えられる改編がなされ、明らかに野鳥の会全体が、内田が本来やりたかった科学・保護重視、飼育廃止の方向に舵を切りはじめていることがわかります。

ちなみにこの号までの野鳥誌に、有名な「野の鳥は野に」というフレーズは一切登場しません。「野辺の族は野辺に」との表記が一度あるだけです。よく聞かれる「野の鳥は野にをスローガンに中西悟堂が設立した…」という紹介は明らかに後年の脚色なのです。

会は野鳥飼育を認めず自らも飼養を辞めたものの、中西は同じ昭和11年、鷹狩りを振興する「日本放鷹倶楽部」に設立発起人として参加しています。まだまだ飼鳥文化と関わりたいという気持ちだったのでしょう。

しぶしぶ引き受けた会の活動のせいで大好きな鳥が飼えなくなった中西悟堂。好むと好まざるとに関わらず、周囲が求める「中西悟堂」像を演じ続けることになった中西悟堂。

「目白と鶯」が出版された昭和三十年代には、林の中、上半身裸で座禅を組む中西悟堂翁の姿がたびたびメディアに取り上げられました。



 こんな感じの写真でした



その世捨て人的な風貌に、当時世間は深遠な自然哲学を思ったわけなのですが、どこか虫網と虫かごを没収された夏休みの小学生のような悲哀を感じてしまうのは、きっと私が「日本一の鳥類学者」よりも「なんだか面白い鳥好きおじさん」の方に憧れているからなのかもしれません。